山路晶プロ物語

目指せ! 黄金世代の“クリスタル” 女子ツアーへ果敢に挑む山路晶

現在、ドライバーの飛距離を武器に国内女子ツアーでトップを目指し、日夜研鑽を重ねている山路晶。数少ない宮城県仙台市出身のツアープロとしても注目を浴び、20―21年シーズンではメルセデスランキング47位に入り、初シードを獲得。22年はシード権を失ったものの、今季はシード復活を目指す。その山路プロがどのようにプロの世界に入ったのか、今年25歳を迎えるその横顔に迫る。

第1章 誕生・ゴルファー山路晶

水泳ではジュニア五輪を目指していた

 98年9月10日、山路晶は宮城県仙台市で産声を上げた。山路家にとって長兄陸、次兄幹に次ぐ3人目の子供であり、初の女子誕生だった。ちなみに、晶と言う名前は音だけ聞くと男の子に多い名前に思えるが、キラキラと美しく明るい輝く星みたいにきれいな子に育ってほしいという両親の願いが込められているという。
 男兄弟に囲まれて育った山路は、小さい頃からお人形さん遊びなど、女の子が好きそうな遊びとは縁がなく、もっぱら外で体を思い切り使う遊びが多かった。
「まさに自然児でしたね。自宅近くに公団住宅の公園があり、休みの日とか、放課後にそこへ行けば必ずだれか友達がいたので、鬼ごっこやキックベースなどで遊んでいました」と振り返る。学校の休み時間も男の子とサッカーをしていたが、当時は体が大きく、足も速かったので、男の子に負けることはほとんど無かったという。
 そんな山路がゴルフと出会ったのは、7歳の頃だった。現在、東北福祉大野球部の監督を務める父・哲生氏は、社会人野球まで進んだほどのプレーヤーだったにもかかわらず、なぜか兄2人も山路も野球を選択することはなかった。長男の陸が小6のときに選んだスポーツはなんとゴルフだったのだ。
「長兄が練習する姿を次兄と一緒に見学していました。それほどゴルフ自体に興味はありませんでしたが、気がついたら次兄も私も長兄と同じゴルフスクールに通ってましたね」と山路。運動神経が発達していたせいか、小学生時代の山路は水泳やテニス、機械体操などゴルフ以外にもいろいろなスポーツに挑戦していた。特に水泳では、平泳ぎが専門だったが、真剣にジュニアオリンピックに出場しようと考えていたほどだ。そんな山路が、あまり運動神経を必要としないように思われるゴルフを選んだのは面白い。ただ、水泳を経験していたことは、ゴルフをする上でもプラスになったという。
「体幹が強くなりますし、関節の可動域も広がりますからね。今にして思えば、どちらもゴルフスイングには大切なので良かったと思います」
 通常、初心者がいきなり練習場で快打を飛ばすことはまずあり得ないが、山路が最初からポンポンと気持ちよくボールを打てたという。その理由としては、長兄の練習を見ながらゴルフスイングのイメージが潜在意識として頭の中にあったことと、水泳で鍛えた体幹と関節の稼働域、そしてスポーツセンスがあったからだろう。
 小学校の高学年ともなれば、大会に参加することも多くなり、そこで結果を残したくなる。負けず嫌いの山路にしてみれば、当然1位以外は目に入らない。しかし、年上の子もいたので、勝つのは容易ではなかった。ゴルフの練習時間を少しでも多く確保するために、水泳をあきらめることにした。

第2章 突如襲ってきた東日本大震災

東北福祉大ゴルフ部のトレーニングに参加した中学時代

ゴルフ1本に集中した山路はメキメキと力をつけ、小6だった10年に開催された東北ジュニアゴルフ選手権競技11歳以下の部で優勝を飾る。この時からすでに飛距離では同学年に敵はなく、飛ばし屋として同世代からは認知されていた。しかし、同年に開催された全国小学生ゴルフ大会女子の分では31位と、全国的にはまだ無名だった。
 そのリベンジは中学に入ってからしっかり返すつもりだったが、翌11年3月11日、最大震度7の地震が東北地方を襲う。東日本大震災だ。授業中だった山路は他の児童とともに校庭へ避難。なんとその校庭には大きな割れ目が入り、真っ二つに割れていたという。当然のように間近に控えていた卒業式は中止となった。幸いにも自宅が津波の被害を受けることはなかったが、水道などのライフラインは完全に遮断され、しばらくの間水を使うことはできなかった。電気も止まり、冷蔵庫の中身も大半が駄目になり、スーパーへ買い出しに行くが、3時間も並ばなければ食料を調達することができなかったという。
 余震が続く中、いつまた大きな揺れが襲ってくるか分からない。山路一家は祖母が住む和歌山県へ避難する。「2週間ぐらいいたんですかね。中学の入学式は行われることになったので、それに合わせて仙台に戻りました」。和歌山へ避難した際、車にゴルフバッグを積むことができたこともあり、練習場でボールを打つことはできたが、コースでラウンドするほど心の余裕はなかったという。「ゴルフどころではなかったですね。友達のこととか心配でした」。被災した人間でなければ分からない恐怖と不安に襲われた山路だが、当時のことは今でも鮮明に覚えている。だからこそ、プロに転向後は、被災者の心を少しでも明るくできるようにと、懸命に頑張ることもできたという。
 中学に入学後はゴルフ部がなく、次兄の誘いで陸上部に入部したが、すぐに辞めることにした。やはり放課後は練習場でボールを打つことに集中したかったからだ。毎日、自宅に戻ると母が運転する車で練習場へ送ってもらい、3時間ほどボールを打ち込んだ後、荷物は母の車に乗せると、自分は自宅まで約30分間走ることを日課にしていた。さらに冬になると、東北福祉大ゴルフ部のトレーニングに参加し、体力アップに励んだ。その甲斐あってか、体幹はますます強くなり、東北ジュニアの12歳から14歳までの部で2位に、日本ジュニアの12歳から14歳の部では22位タイとなった。中1の山路にとって2歳上の中3までいるカテゴリーだけに、立派な成績だといえる。ちなみに、優勝したのは中3のささきしょうこで、3位には勝みなみが入っていた。

第3章 中嶋常幸のアカデミー1期生に

レベルの高い同期に刺激されながら成長

 中学時代は淡々と練習場でボールを打ち続けていた山路だが、中2になったあるとき試合会場で同い年の小滝水音から、中嶋常幸がジュニア向けのゴルフアカデミーを主宰している話を耳にする。世代的には中嶋が活躍していた時代を知らないはずだが、練習場で休憩するときにゴルフ雑誌を手にしていたこともあり、中嶋がゴルフ界のレジェンド的な存在であることは知っていた。そんな選手に教えてもらえるならと思い、早速問い合わせてみることにした。
「とりあえず書類に必要事項を記入して応募したんですけど、第1次審査を通過したので、茨城県の静ヒルズカントリークラブまで行くことになりました」。なんと現地へ行ってみると、全国から96人のジュニアが最終テストに参加。ドライバーやアイアン、アプローチなどのショットを中嶋自身がチェックする方式がとられた。高校生男女4人ずつ、中学生男女4人ずつの狭き門だったが、山路は見事合格し、トミーアカデミーの1期生となる。活動内容は年に3、4回行われる合宿が中心となるが、「成果が見られない場合は脱落!」と中嶋が宣言しているだけに、決して気を抜くことはできなかった。
「ショットではボールをつかまえることから教えてもらいました。たまにテニスラケットでボールを打ったりだとか、バットを振ったりもしました」と山路。合宿は金曜から日曜まで行われ、全員が静ヒルズCCに宿泊。ミーティングも行われるが、夕食後には中嶋からの昔話などを聞くことができ、厳しさの中にも楽しさがあったという。  山路と同じアカデミーの1期生にはアカデミーの存在を教えてくれた小滝のほか、畑岡奈紗、蛭田みな美、安田彩乃らがいた。また、翌年には次兄の幹がアカデミーに合格。合宿には兄妹一緒に参加するようになった。
 トミーアカデミーで年齢の近いジュニアと切磋琢磨したことで山路の技術も上がり、12、13年は東北ジュニアを連覇。13年の日本ジュニアでも13位タイに入った。
「東北では勝てても、全国大会になるとなかなか上位にはいけなかったですね」と振り返るが、なんといっても山路の世代は後に“黄金世代”と呼ばれるだけに、層が厚かったのは間違いない。実際、13年の日本ジュニアでは初日に首位タイに躍り出た山路だが、同じ首位タイには勝みなみ、3位タイには畑岡、そして1学年下の稲見萌寧がいた。山路のように好調の波が激しいタイプでは、なかなか上位をキープさせてくれるほど甘い環境ではなかったのだ。しかし、この層の厚さが山路をプロの世界に導いたとも言える。

第4章 本気でプロを目指した高校時代

高校生Vを飾った同期の勝、畑岡に刺激を受ける

 現在、国内女子ツアーで12人が優勝を飾っている黄金世代。その筆頭は畑岡や勝、渋野日向子らだが、彼女たち以外の選手はもちろん、まだプロテストに合格していない選手も含めて、ジュニア時代から意識が高かったという。
「マラソンで例えるなら、私は先頭集団でもなければ、第2集団でもありませんでした。第3集団でもなかったかな(笑)。でも、同世代は皆プロになるのが既定路線という感じでした。そういう雰囲気があったので、自分も将来はプロになるんだと普通に思っていましたね」と山路。
 言ってみれば、彼女らの世代は宮里藍の影響を大きく受けており、小学生のときから将来は海外ツアーで活躍したいという目標を持つ選手が少なくない。山路もその一人で、小学生のときにテレビで宮里を見てプロを目指したいと思った。そんなジュニアが全国各地でゴルフと真剣に取り組むのだからレベルが上がるのも当然だろう。  さらに、山路が高1のときに同学年の勝がツアー競技のKTT杯バンテリンレディスオープンで優勝し、高3のときには畑岡が日本女子オープンで優勝を飾る。後にも先にも高校生でツアー優勝した選手を2人も輩出したのはこの世代だけだ。それでも、山路は彼女たちの実力を肌で感じていただけに、それほど驚きはしなかった。むしろ、自分も頑張ればそういったチャンスを手にすることができるとさえ思ったという。
「プロになれるかどうかというよりも、ツアーに出たらどれぐらい賞金を稼げるのかしか考えていなかったですね」と、当時の山路は夢が広がるばかりだった。そして、高校卒業後は、茨城県にある宍戸ヒルズカントリークラブへ研修生として入り、いよいよプロに向けて本格的な第一歩を踏み出す。